読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さよなら、ギャシュリークラム

遺書を書かされています

「夜闇に蠢き」

私小説、あるいは

 月明かりも差さないコンビニの隅に、黒い影がある。いや、黒ずくめの人間が立っていた。夜食のおでんを買い終えたばかりの僕の目は、これ以上ないほど典型的な不審者像を結んでいる。見れば見るほど黒くて黒々しい人間だ。怪しい以外の表現が存在してはならないほどに、黒い。月は勿論、看板灯にも見放された死角だ。そこに存在していいのは、夜の風が冷やしていく空気だけだろうに。唐突に、右手後方からおそらく僕に向けられた声が聞こえ我に返ると、どうやら僕の真後ろにある自動ドアは何度目かの開閉を繰り返していた。あろうことか僕は間接的にとはいうもののコンビニへ迷惑をかけしまっていたようだ。言い訳を誰に言うでもないが、鎮座する黒ずくめに思わず見蕩れていただけであって、決して、僕自身の鈍臭さが招いた事象ではない。

 二、三歩いや五、六歩ほど黒ずくめから離れるように右へ踏み出した後、視線は固定したまま、その人間について暫し思考してみる。男か、女か。ヒザ下まで隠したコートに目深にかぶられたボーラーハット。髪色は見えないが明るくはない。長さもよく分からない。体型はやや細め、身長はよく見れば二メートル近くはあるだろう。異様なまでにだらんと長く放り出された腕の先は、これまた真っ黒な革手袋に覆われている。見れば見るほど不気味で、しかし目を背けるのを躊躇うような奇妙な魅力がある。

 目が合うような気配がした。果たして視線がぶつかり合ったかは分からないが、おののきにも似た感情が心を支配した。背筋が凍る。一瞬にして体温を失ったような、周囲の気温だけ氷点下を録したような。奥歯がガチガチと数度鳴った。でも恐怖ではない、決して恐怖だと感じてはならない。何よりその人間は数ミリも動いてはいない。視線を外せなかったのだから間違いではない。滅多に通らない自動車がコンビニ前の県道を通過し、そのヘッドライトの機微が想像し得ない現象を引き起こしただけだ。きっとそうだろう。

 強い強い風が吹いた。咄嗟に顔を伏せた。冬の到来を感じさせる冷たい風だ。レジ袋が喧しく鳴いた。砂埃が頬に突き刺さるようだ。なのに、目を閉じたら微温い香りが顔面に纏わりついた。声は出ない。耳元で何か囁かれているような気もした。風とレジ袋の重唱のせいで聞き取れることはなかったが。

 風がやみ、目を開くとコンビニの隅の黒い影は消えていた。消えた、のだろうか。元々何もなかったのかもしれない。人は闇に名前をつけようとしたがるものだ。漠然とした恐怖を誤魔化すために、僕の脳が勝手に虚像を存在させていたのかもしれない。きっとそうだろう。溜め息を一つ、くしゃみを二つ。さっさと帰って、こたつに入って、冷めないうちにおでんを食べなきゃ。その後はゆっくり風呂に浸かって温かい布団でぐっすり眠ろう。何も思い出す必要はない。

 一度だけ体を震わせると、僕は車のない県道を横切った。

 

 おでんがなくなっていた。これを狙っていやがったのかくそが。