さよなら、ギャシュリークラム

遺書を書かされています

カムパネルラを探しに空に飛び込んでみたけれど

 この時の作者の気持ちを答えよ、て問題を見た記憶はないけど、この時の主人公の気持ちを答えよ、とか、この作品で作者が伝えたかったことは何か、て問題はよく見た記憶がある。
 田舎の高校のとある選択科目で「銀河鉄道の夜」を読み、この作品の考察、転じて著者である宮沢賢治が何を伝えようとしたのかをグループ毎にまとめ、発表しディスカッションし理解を深めようといった授業があった。今思えばなんという中学教育て感じだけど、しょぼい高校だったんだね。
 他のグループが四人以上であるのに対し、我らのグループだけ三人だったのは、地道な素行不良が国語教師の反感を買ってしまっていた証拠だったのかもしれない。
 さておき、僕自身、本を読むのが好きではなかった。というのも、小さい頃から僕の家にはゲームの類などなく、誕生日プレゼントも辞典とか伝記ばかりで、ことあるごとに読書を強要され、反抗心からいつしか活字を毛嫌いしていた。じゃあ何故本を読まされる選択科目を選んだのかと問われれば、その時間他の授業はもっと嫌いな理数系の授業ばかりだったからだということです。じゃあ文系も理数系も嫌いということなのか一体何系なら好きなんだ! と問われれば、好きな科目があると考えるその思考こそが烏滸がましいと応えるぞ。
 実際は、その授業自体は好きだったんです。読むごとに感想文を書かされたけど、何故だか書くことは昔から嫌いじゃなかった。リードとライトは別問題。だから矛盾してない。興味がある本を適当に読めばいいだけだし、読んだ本のレビューを書いて全員で評価しあう授業なんかもやったな。楽しかった。
 そうそう、「銀河鉄道の夜」ね。
 そもそもからして考察しがいのある作品。パソコン室で作品が書かれた背景や宮沢賢治自身を調べたり、図書室で文献を漁ったり司書のお姉さんとダベったり。まあみんな同じ調べ方をしてるから、発表されたものは似通ってしまったんだけど。いわば、感動的な作品であるって、あの国語教師は伝えようとしたんだろうな。
 僕は言いました。「カムパネルラはジョバンニが嫌いなんです」
 あの時のみんなの表情は忘れられない。一瞬時間が止まったように、静寂から一転、ざわつく教室。国語教師のふがふがした顔。笑えた。
 ザネリがジョバンニをいじめていたシーンがありますが、カムパネルラは助けてくれなかった。カムパネルラは気の毒そうにしていると書かれてはいますが、それはジョバンニの主観でしかありません。終盤のシーンで、ジョバンニがカムパネルラに「どこまでも行こうねえ」と何遍も言うシーンがありますが、カムパネルラはまさかの全無視をしています。勿論会話するシーンがないわけではないです。でも他のクラスメイトが乗ってこないと分かっている時点で、少なくとも昔はよく遊んでいたジョバンニが同行者として同じ列車内にいるのであれば話さない訳にはいかないだろう、とかなんとか長々と僕は主張しました。
 たぶんドヤ顔だったと思います。どうだ、てめえらが内心薄々感じてた違和感を道筋立てて意外と信憑性のある風に語り尽くしてやったぜ。うわなんだろすっげえ気持ちいい。今思えばある種の変態でした。
 一通りの独白のあと国語教師は言いました。
「なかなか面白い説だと思いました。でも、その説は間違ってると思います
 あの時の僕はどんな顔をしていたんでしょうか。友人曰く、今にも窓をぶち破って飛び降りそうな顔をしていた、らしいですね。
 結局あの国語教師は、何故間違っているかの説明は一切せず、かと言ってその後僕が呼び出されたりすることもなく、一年は過ぎていったのです。
 あの授業のおかげで読書はそれなりにするようになりましたが、あの国語教師は自分の中でクソオブクソ教師です。おかしいですよね。いえ、偏見なのかもしれないですが、教師というのは、生徒の意見を受け入れあらゆる側面可能性を考慮しながら、回答してくれる存在だと思っていたので。というか僕としては今でも自分の説はあながち間違ってなかったと思っています。たぶん当時の教師が反論しなかったことに対する嫌悪感の顕れですね。
 まあつまり僕が何を言いたいのかというと、過去の作品に幻想抱き過ぎなんだよクソどもが、ってことと、俺は宮田のことが大嫌いだ、ってことです。宮田ってのはその国語教師のことです。
 記事タイトルは関係ありそうで特に関係ないですすみません。